そして、「茶道」という戦略的な題材選び。
当時の西洋にあった、宗教や哲学こそ文明の基盤であり、芸術こそが文化の頂点であるという、知識人たちの考え。
そして、西洋では芸術とは「天才」的な芸術家によってのみ生み出されるもの、とされていた前提理解。
この芸術観自体へ、天心はカウンターを入れていく。そこで選ばれた題材が「茶道」。
「いや、一見芸術に似てはいるんですけどね。日本の芸術である茶道はむしろ日常生活に結びついてるんですよね。特別なものじゃないんです。一部の天才だけでしか生み出せない芸術と、貴族から庶民まであらゆる層が生活のなかで実践されている私たち日本の芸術。一体どちらが文明的と言えるんでしょうね?」と。
日本文化論を、「文化」という大きな枠ではなく、「美術」でもなく、「芸術」しかも「茶道」という枠に設定した事。ここが歴史的書物となった所以なんじゃないかとも思ってしまう。
一見「ティーセレモニー」という、西洋人にとって馴染みのある入口。
が、西洋人にとっては不可解でもあり、ティーセレモニーの文脈とは似て非なる異なる文化でもある。
しかもその背後には、老荘思想、それを受け継ぐ道教、さらにそれを受け継ぐ禅の存在、そしてそれを踏まえた東洋の自然観がある。
それを伝えるために、西洋人にとって馴染みのある「ティーセレモニー」ではなく、天心は「ティーイズム」という言葉をわざわざ当てている。
ここには「Buddism(仏教)」などと同様に、茶道が宗教的レベルにあることを示す、天心の戦略的な意図があったんだろうと思う。
すべては移り変わる。
だからこそ、物事に大小の区別はなく、日常的なもののなかにこそ深い世界がある。
それが茶道にある根幹のものなんです。そう伝えている。
この全く文脈が異なる東洋思想を持ち出す事で、西洋人の価値観を相対化させたこと。
彼らに知的に対抗できる手段として、何が最も題材としてふさわしいのか?
それらについて思考を巡らせた、天心の戦略性について想像してしまう。